その夜は勝負の夜だった。
一か月前。
友人は言った。
次に会う時、先に話しかけたほうが勝ちだと。
僕はその言葉を真に受けた。
どうやって話しかけよう。
何を言おう。
何度も考えた。
メモまで用意した。
当日はお腹が痛くなるくらい緊張した。
なのに実際はどうだっただろう。
二時間待って。
ポテトチップスを食べて。
完全に油断したところで隣に現れた友人に、
「こんばんは」
と言われた。
僕は準備していた言葉を口にした。
「無いようが内容」
すると友人も同時に言った。
「引き分けですね」
結局、勝負は引き分けだった。
だからお互い願い事を一つ書くことになった。
友人はあらかじめ用意していたカードを取り出した。
僕もカードを受け取った。
その場では開けない。
宿に帰ってから見る約束だった。
別れ際。
友人は笑っていた。
僕も笑っていた。
その時はまだ知らなかった。
最後のサプライズが残っていることを。
宿に戻る。
風呂に入る。
水を飲む。
少し落ち着く。
それでも緊張していた。
今夜だけで何度驚かされたか分からない。
まだ何かあるのだろうか。
カードを開いた。
そこには短い言葉が書かれていた。
『これからもよき友人でいてほしい』
思わず笑った。
なんだ。
そんなことか。
当たり前じゃないか。
そう思った。
けれど。
数秒後。
数分後。
じわじわと胸が熱くなった。
この夜のために。
一週間前から。
何を書くか考えていたという。
たった一つだけ書ける願い。
もっと面白いことも書けたはずだ。
無茶なお願いだってできたはずだ。
それなのに。
友人が選んだのは、この言葉だった。
『これからもよき友人でいてほしい』
勝負の夜だった。
勝ち負けを決めるはずの夜だった。
けれど最後に残ったのは、
勝利でも敗北でもなかった。
これから先も続いていく約束だった。
ジャズを聴く約束。
また会う約束。
笑い合う約束。
そして友人でいる約束。
僕はカードを閉じた。
窓の外は静かな夜だった。
人生には、ときどき信じられないようなことが起きる。
数か月にわたる変装。
伏線だらけのサプライズ。
答え合わせの夜。
まるで小説みたいな出来事。
きっと僕は死ぬ前にこの夜を思い出す。
楽しいことがあった人生だったな、と。
あの夜、僕は名探偵にはなれなかった。
けれど、とても良い友人を持っていることだけは確信した。

